

2024年9月15日 聖日礼拝メッセージ
説教 愛による備え
30節に登場する「御霊の愛によって」という表現。これは美しい表現であります。しかし、これほどに美しい表現でありながら、この言葉は、ここにしか登場しないのです。神の御言葉なる聖書の、その奥義的な性質を端的に集約して言い表してみせたかのようなこの表現、「御霊の愛によって」。これが、聖書の中でここにしか使われていない言葉であるとは、我々にとって、まことに意外な驚きであると同時に、本日の御言葉を読み味わうにあたって、何とも暗示的な事実であります。
皆さん、「人の愛」が勝つのではありません。「人の愛」が聖霊の雨を降らせるのでもありません。私たちに勝利を与え、私たちに向けて聖霊の雨を降らせて下さるのは、「人の愛」ではなく、あくまでも「神の愛」なのです。まこと信仰にとって「神の愛」こそが全てであります。第一コリント書13章で謳われる「愛」の一文字の全部を、どうか「イエス・キリスト」に置き換えて読んでみていただきたい。本日のローマ書の御言葉において、パウロが「祈ってほしい」とローマの信徒たちにさかんに懇願している祈りは、「人の愛」に立った祈りではなく、そうした「主の愛」に支えられ導かれての信仰の祈りであります。このパウロの心情を、私たちとしても忘れたくないものであります。つまり、ここで求められているのは、単なる「応援」や「気遣い」ではないのです。そういう人間的なものではないのです。そういうものでは、到底パウロの使命を支え切れるものではないのです。ここで必要とされているのは、キリストの復活に示されているような「揺るがない希望」であります。我々が見ることの出来る現実、絶えず移り変わっていく眼前の現実を越えたところにある「変わることのない望み」。これに支えられた祈り。パウロは今、これが欲しいのであります。なぜなら、はかなく虚ろいゆく現実が信仰の事柄を決めるのではないからです。パウロは今、自身のエルサレム行きに関して、主の「エルサレム入場」の時のような勇気を持てたならば、と願っているのです。そのくらいの覚悟を持って臨みたいと願っているのです。
「御霊の愛による勝利宣言」。ローマの信徒の祈りに伴われてパウロが得たいと願っているのは、これです。信仰や希望が神から来るものであることを確信し、人間に発する愛ではないがゆえに、それは「いつまでも絶えることがない」ものであることを確認できたならば、その「愛による備え」はキリストご自身の命に私たちを引き寄せる。それはまぎれもなく、「復活の命」にあずかることであります。これあるならば、「世の終わり」に臨んでも「永遠の命」の輝きの只中に置かれる。「主にある死こそは命」なのですから。
とするならば、パウロによってここでローマの信徒たちに勧められている「祈りによる共なる戦い」は、単なる勧告ではない。単なる懇願でもない。まさしく御霊の愛によって、「愛による備え」としてそれが為されゆく時、これは、祈らなくても自由な祈りなのではなく、私たちのあずかるべき復活の命に向けた、神からの厳粛なご命令なのであります。