2024年10月6日
聖日礼拝メッセージ
説教 種のゆくえ
御言葉という種。その最初の「種まく人」は主ご自身であります。そして、その受け手が私たちであるわけですが、ここに述べられている四つの土地のうち、何と三つまでが、それぞれの理由において「実を結ぶ」という所まではいかない土地として紹介されていること。これは私たちにとって、興味深くも心に刻むべき、そして耳の痛い話であります。そう考えると、まこと思うにまかせぬ、この「種のゆくえ」であります。しかし、さらに一歩考えを進めてみると、ここでの「種まく人」の代表がイエス・キリストご自身だとすれば、これはある意味、主イエスがご自分の伝道の失敗について語っておられると読むことも出来るのです。そうすると、なぜか私たちの内に、種の受け取り手としての自責の念だけではなく、自分自身が御言葉の伝え手として働く時の不思議な慰め、励ましもまた感じられて来て、かえってそこから、ある種の勇気が湧いて来たりもするのです。
本日の御言葉における「種まき」の喩えにおいて、最後のケースしか成功していないということ。大方は実を結ばずに終わっているということ。とすれば、人生は何事においてもそうでしょうが、なかなか思いのままにはならぬものです。とりわけ御言葉を伝えて神を証しするという行い。これについては、むしろ、うまくいかなくて普通、それが当たり前なのです。もちろん誰しもが希望を持って種をまくわけですが、私たちの手を離れた種がたまたま「良い地」に落ちてくれなければ、実を結ぶという望みは達せられない。この真実は、種の受け手なる自分の内面の事柄としても言いうる事実であると同時に、本日の御言葉の読み方、その視点を一転させて、自分を「種まく人」に置き換えてみた時も、「種のゆくえ」までは、なかなか自由にはならないということに気づかされるのであります。
しかし、神の憐み、神の力というものは、私たちの思いをこえて不思議なものです。それは自分自身を振り返ってみれば誰しも気づくことでありましょうが、たとえ一旦は茨の中に落ちた種であっても、神はそこから奇跡的に花を咲かせて下さることもあるということです。それは道ばたであっても、土の薄い石地であっても同様です。それを思いますと、何か私自身が、そうした「あだ花」として咲いた牧師である気もするのです。それでも、そうした私の口を通して語られる御言葉を感謝して受け止めて下さる方々がいる。そう、皆さんのことです。考えてみると、本日の御言葉は、どこに投げたかもわからない「種まく人」の問題が言われているのではなくて、そちら側からの問題には触れられず、もっぱら種が落ちた土地、つまり「受け手の側の状態」の問題として、これが語られている。これは極めて興味深いことであります。そしてそれは私たちに、自分自身というものを省みさせるに十分です。
こちらの思い通りに皆、人が育っていてはならないのです。いろいろあっていいのです。むしろ、それが「種の正しい播き方」であったがゆえに、違う結果が生まれるのです。そう考えられないでしょうか。それぞれの咲き方がある。それは神のみぞ知る、であります。