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2024年9月29日
第72回召天者合同記念礼拝メッセージ
説教 主を仰ぎ見れば

なぜ、こう言えるのか。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない」と。「途方にくれても行き詰まらない」と。「迫害に会っても見捨てられない」と。「倒されても滅びない」と。パウロはそこで、いったい人生に何を見たのか。皆さん、本礼拝は、私たち鷹取教会の「召天者合同記念礼拝」でありますから、いま召天者と共に礼拝をなすという観点から、パウロがそう言える理由について考えていきたいと思います。

共観福音書には「復活問答」と呼ばれる、主イエスとサドカイ人との会話が記されております。そこで主イエスは彼らに「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」としたあとで、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われるのでありますが、まことに興味深いのは、神は「生きている者の神」と言われるその直前に、その根拠として「<わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である>とあるではないか」と、旧約における父なる神の御言葉を引用されて、主イエスがそれを述べていることであります(マタイ22:23-32)。皆さん、これは、常識的に考えれば矛盾した物言いであります。なぜなら、族長時代のアブラハムもイサクもヤコブも、イエスの時代より二千年も昔の時代を生きた人たちだからであります。つまり、もうとっくに死んだ人なのです。その彼らの神であるゆえに、神は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とするのでは、話の筋が通らないのではないか。これは、どう考えるべきなのか。

皆さん、神は、あらゆるものに命を与え、それを支え、輝かしめるお方であります。神は、「生きよ、いのち」と、すべてのものを「生かしめる」お方なのです。神の御前においては、すべてが生きるのです。そこにおいては、死んでいるものはひとつもないのです。何より主イエス・キリストの復活が、それを見事に証ししているではありませんか。神様は、死に命を与えるお方、まさに「死から命へ」のお方なのであります。そこにおいては、あなたの人生のすべてが生きる。生かされる。徒労と思える努力も生きる。踏みにじられた愛も生きる。報いられなかった忍耐も生きる。悩みも、孤独も、悲しみも、空しさも、いや、あなた自身の罪さえ生きる。それが「赦し」の意味であります。

神の御前に出る時、神の光によって照らし出される時、この人生に無駄なもの、無意味なものなどひとつもないのです。すべてのものが意味あるものとして輝き、生きてくること。すなわち、「いのちを復活してくる」こと。そういう意味での「いのちの源」としての神と出会うこと。それこそがまさに聖書を読むことであり、主を仰ぎ見つつ、その御言葉に導かれること、なのであります。それ以外の「いのちの書」の在り方はありません。

同様に、いま私たちが、この「召天者合同記念礼拝」に列して、本当に神を礼拝する時、復活の主イエスに出会う時、あなたは、すでに死んだ人、亡くなった過去の人を「偲ぶ」ために、ここに座っているのではありません。天国の方々と共に、新しき命をもって出会い、生きた礼拝を捧げてゆくのです。「生きよ」との神の御声の下に、共に交わりながら…。

​鷹取教会

​鷹取教会は、プロテスタントの教会です。

住所

〒653-0053

兵庫県神戸市長田区本庄町6丁目6-14

 ☎:078-733-2526

​ (神戸野田高等学校 西どなり)

​アクセス

【交通機関】

 ● JR鷹取駅から南東へ徒歩7分

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【お車】
 ● 大阪方面から、阪神高速3号線 湊川ICから

​ ● 明石方面から、第二神明 須磨ICから

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