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2024年9月8日 聖日礼拝メッセージ
説教 良き土であるために

「良い地に落ちた種」という表現が8節に登場します。自我中心の信仰たる「道ばた」、困難によってすぐ挫折してしまう「土の薄い石地」、世の様々な欲望に邪魔されて実を結べない「いばらの中」。これらに比べて「良い地」と呼ばれているものは何なのか。「種まきの喩え」についての説明が主イエスご自身によって為されていく13節以下20節までの部分。そこに照らして8節を見つめ直してみる時、ここで言う「良い地」とは結局、「土だけの土地」であること。これを深く知らされて来るのであります。ただ「土だけの土地」。皆さん、神の前に喜ばれるのは、じつは、そういう「何も持たない」信仰なのであります。それに比べると普段、私たちの信仰は、才能とか能力とか道徳心とか善良さなどを含めて、ちょっと余計なものを持ちすぎているのではないか。結果、「道ばた」や「土の薄い石地」や「いばらの中」に落ちた種となる。そういうことを示唆されているような気もして来るのであります。とかく自我と結びつく熱心さ。根を持たず、すぐ挫折してしまう情緒的陶酔。希望ならぬ欲望ゆえの信仰的忠誠。私たちの信仰には、ちと、これらが多過ぎるのではないか?

かく言うほどに、「土だけの土地」になることがどんなに難しいか。但しそれは、それを「自分の力で」実現し、実践しようとする時には、であります。おのれの「無」を知る信仰とは、そこに何ら人間的な「誇り」を含まないものです。そもそも「誇り」ある所、「無」は存在しない。但し、ここで言う「無」とは、仏教的な「無」のことではありません。そうではなく、「徹底的に砕かれた魂」のことです。粉みじんに砕かれて何も持たないからこそ、キリストの十字架にすがるほかない命のことです。決して自分の信仰によって救われたり支えられたりするのではなく、むしろ自分自身の信仰にとことん絶望した結果、キリストご自身の信仰にすがって生かされてゆくほかはないこと、これを身をもって知った命のことであります。神が喜ばれるのは「徹底的な破れで生きていくほかはない」信仰、つまり人間の目から見て「最も信仰らしくない」信仰、およそ「立派さ」というものからは最も縁遠い信仰なのであります。

皆さん、信仰は「信仰」という名がつく限り、駄目なのです。信仰信仰と言っている限り、逆に「土だけの土地」にはなれないのです。なぜか。人間は罪びとだからです。ですから皆さん、主イエスの前に身を投げ出しましょう。但し、<お守り>を身に付けて飛び込むのではありません。罪びとのまま、赤裸の姿で飛び込むのです。自分自身が「まかれた種」それ自身になりましょう。そこに聞こえて来る御言葉を受け取りましょう。心の土の奥深くにそれを沈めましょう。そして発芽の時を待ちましょう。

「聞く」とは、この「種まきの喩え」のごとく、じつに単純にして奥深い事柄であります。それは人間の最大の「行為」なのです。その「聞く」という「行為」において私たちが、いかに純粋に徹底しうるか。今それこそが、最も本質的に問われているのであります。

​鷹取教会

​鷹取教会は、プロテスタントの教会です。

住所

〒653-0053

兵庫県神戸市長田区本庄町6丁目6-14

 ☎:078-733-2526

​ (神戸野田高等学校 西どなり)

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