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2024年9月22日 聖日礼拝メッセージ
説教 御旨を見つめる祈り

教会は「主の臨在」を確認し合う場であります。そのための集いが礼拝です。このことは「教会の誕生」とも呼ばれる使徒行伝2章のペンテコステの出来事を思い起こしても言えることであります。そこでは「バベルの塔」とは正反対に、いかなる言語で語り出された言葉であっても「主の下の一致」が得られるのです。「キリストの霊感」において強く繋がり合えるからです。そこで得られる至福は、ちょっと形容の仕方も見つからないほどであります。キリストの命に守られ、包まれる場であることが、教会の醍醐味であります。「救いが起こる」とは、生ける主の臨在によって私たちが豊かに祝福され、「永遠の命」輝く世界に、つまりは「神の国」に、魂が連れ去られることであります。大事なことは、そこでしか気づけない真理があるということです。そこでしか見えない栄光があるということです。世の終わりには何が起こるか分からないけれど、その時、キリストは再び来られる。その雛形(ひながた)が礼拝にあり、その出来事がどんな味わいであるか。それを私たちは予測することが許される。それは平安に満ちた時間であります。「天に召される」とは、そのことです。主が臨在し給う時、私たちは生きながらそれを味わうことが出来るのです。それを思うと、「再臨を待ち望む」信仰とは、幸せの極みであります。そこにある平安を、私たちはイエス・キリストの十字架によって許されております。

本日の御言葉には、そういう交わりから発せられる祈りがあり、また、それが求められております。どうやらパウロは、「世の終わり」や「キリストの再臨」。これを思わずに働いたことはなかったようであります。私たちは本日の御言葉から、それを窺い知ることが出来ます。つまり、自身の働きへのパウロの思いは、「この世のもの」を超えているのです。ある種の合理性を超えているのです。「キリスト再臨の時」という覚悟と見通しを持って、パウロは働いて来た。自分の業の意味は、その時に明らかになる。よって、それに間に合わせなければならない。そういう思いに駆られていたようなのであります。そういう思いと覚悟を持って私たちは生きているだろうか。主と共なる歩みをなしているだろうか。そうではなくて、信仰の祝福の名の下に、何か現世的な幸福ばかりを都合よく追い求めているのではないか。そのような姿勢で、はたして私たちは、最初に述べたようなキリストの霊感に満たされた平安にたどりつけるだろうか。本日の御言葉に刻まれた「御旨を見つめる祈り」に触れながら、私たちはそれを思わずにいられないのです。

パウロもかつて、ユダヤへの偏狭な愛ゆえにキリスト教会を迫害した。その彼が今、今度はキリスト教会を助けるために、エルサレムへ向かおうとする。「私のために祈ってほしい」と訴えているのは、逆に言えば「命をかける」覚悟があるからです。ユダヤの事情をよく知るパウロは、エルサレムのキリスト教会が内外の事情から、パウロからの献金を受け取りにくいことも分かっている。しかし今、「御霊に迫られて」その働きに向かおうとする。「神の御旨がなされますように」との祈りを見つめ、その祈りに自身が支えられつつ…。

​鷹取教会

​鷹取教会は、プロテスタントの教会です。

住所

〒653-0053

兵庫県神戸市長田区本庄町6丁目6-14

 ☎:078-733-2526

​ (神戸野田高等学校 西どなり)

​アクセス

【交通機関】

 ● JR鷹取駅から南東へ徒歩7分

​   国道2号線より南です。

  

【お車】
 ● 大阪方面から、阪神高速3号線 湊川ICから

​ ● 明石方面から、第二神明 須磨ICから

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