

2024年9月1日 聖日礼拝メッセージ
説教 まかれゆく種
荒野に実が結ばれ、かわける地に川が流れ、そこに生きる人の心に泉が湧く。そのように、私たちの現実の泥まみれの中に御言葉の種がまかれると、福音は、その本来の持てる力の最たるものを発揮するのであります。こうして砂漠は緑あふれる所となる。そういうことからすると、ここで言われている「良い地」とは、決して見た目の肥沃さ、土壌の豊かさを指すものでないことは明らかであります。むしろ、人も羨(うらや)むそういった環境が、逆に、御言葉の種の花を咲かせるのに最も不適切な土地柄となってしまうことは、しばしば聞くことであります。なぜならそういう時、福音の花を咲かせる御言葉という「いのちの種」が、正しく地にまかれないで、ポケットの中に仕舞われたままとなってしまうからです。種を受ける側だけではなく、種をまく側にとっても、恵まれ過ぎた人生は、種の実を咲かせるのに、その機会を失ってしまうことが多いのです。
種がまかれているのに、そもそも種がまかれていること自体に気づけない人生というものがある。いや、誰の人生にとっても、じつは種がまかれていないということはない。何らかの形で種はまかれているのです。ただ、種の力、種の可能性に自分の人生を賭ける必要のない人にとって、まかれた恵みに気づけないのです。日々まかれゆく信仰の種。それは私たち個々人の意志の強さなどというものとは関係を持たない所で、実を結び、花を咲かせてゆく。にもかかわらず、本日の御言葉で不思議なのは、種をまかれた受け手の側が「道ばた」「土の薄い石地」「いばらの中」「良い地」という形で問題にされていても、まかれゆく種それ自身の良し悪しについては全く触れられていないというこのことです。これは、およそ人生というものについての深い教示を含んでおります。私たちはつい、それを忘れがちでありますが、御言葉の良し悪しではないのです。御言葉の内容によるのではないのです。言い換えれば、それがいかに適宜であるか、タイミング良く、折を得たものとなっているか、ではないのです。いつ、どういうものが与えられようが、あくまで受け手の問題なのです。なぜなら、まかれゆくのは全部、神の言葉であるからです。福音の種に区別はないのです。すべてが「いのちの言葉」なのです。
さらに言えば、ここでの土地の違いは、種をまかれた場所の環境の違いでもありません。じつは、そこに本日の御言葉の重点や本質はないのです。ここでの土地の違いは、種をまかれた場所の環境の良し悪しの問題などではないのです。つまり、土地の違いは、じつは土地の良し悪しを言っているのではないのです。そこがどういう環境のどういう土地であれ、実を結び、花を咲かせた土地が、すなわち「良い地」なのです。「良い地」だから花を咲かせるというのではないのです。つまり端的に言えば、ここに喩えとして登場して来る四つの土地は、一人の人間の中の、その個人の内面の、御言葉を受ける態度のことを言うのです。そして、それに伴う、その人の生き方のことを言うのです。環境や性格は変えられなくとも、態度や生き方は変えられる。御言葉は、その可能性こそを示唆するのです。