2024年8月18日 聖日礼拝メッセージ
説教 御旨に召されて
「異邦人は救われるために、ユダヤ教伝来の律法を守る必要があるのか」。この問題に対して協議のなされたエルサレムでの「使徒会議」(紀元49年頃。使徒行伝第15章参照)で、パウロとその弁護者バルナバが主張した「律法から自由な福音」の立場に立った伝道が認められて以降、パウロたちの働きは、アンテオケに代表される異邦人教会と、エルサレムに代表されるユダヤ主義的キリスト教の教会との橋渡し。これが公にして明確な使命となりました。使徒会議の結果、律法を守ることから異邦人を解放して、信仰によってのみ救われるということが確認されたとは言え、これで論争が終わったわけではなく、歴史的に見れば70年のエルサレム陥落まで、この対立は継続したからであります。異邦人教会からの献金をエルサレム教会に運ぶという、ここに見るパウロの働きも、この両者の橋渡しという、その自覚する使命に基づいたものであります。
「律法から自由な福音」。それは言い換えれば「十字架の福音」であります。しかし、この「十字架の福音」は、単に異邦人を解放し、異邦人を救うばかりではない。異邦人とユダヤ人とを本当の意味で「和解」させるのであります。その「和解」の務めを自分はゆだねられている。パウロはそう考え、そう信じたのです。それは神聖な自覚でありました。いきおいそれは、彼の重い使命ともなりました。それを考慮すると、パウロがここで、異邦人教会からの献金を自分自身の手でエルサレム教会に運ぶことに、なぜそれだけ急ぎ、かつ、命がけの危険を冒さなければならなかったのかも納得がいきます。それは彼もここに書き記すように「奉仕のためのエルサレム行き」でありました。エルサレムに対する自分の奉仕が、かの地の聖徒たちに受け入れられるものになるようにと彼が願ったのも当然であります。対立があるとは言え、パウロはエルサレムへの尊敬を失っていなかった。なぜなら、旧約以来の長い救済の歴史を最終的に完成するのは、エルサレムのユダヤ人聖徒たちであると考えていたからです。私たちはパウロのこの姿勢に、逆に尊敬を覚えます。皆さん、他者への敬意。まさに、これこそが自分への最大のアイデンティティーであること。それを、私たちはここから学びたいと思います。言い換えれば、他者への軽視は、取りも直さず、あなたが自分へのアイデンティティーを失ってしまうことに通じるのです。それを知る者が信仰者と言うべきです。「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」…。
「罪の赦し」は、旧約聖書が最後に到達している境地です。それを新約が受け継ぐのです。私たちは神による救済史の大きな流れの中に生きる一つの命、永遠の命です。我らの罪への苦闘を見られた神が、十字架のキリストによって与えて下さった「赦し」に魂の底から咽(むせ)び泣きながら、いま私たちは御霊の注ぎを受けて、神の下の「兄弟」となる。主の十字架なくば、ついに救いもなく、喜びもなく、慰めもない。その命の中で、我らは主の血潮を共有する。それが、それこそが、御旨によって召されたる者の幸いであります。