2024年8月4日 聖日礼拝メッセージ
説教 主イエスの距離
なぜ主は舟に乗られたのか。距離を置くためです。群衆との間に距離を置くためです。そういうことを主はしばしばなされています。マルコ伝で言うなら、たとえば3章7節から10節にかけての描写がそうでありました。本日の箇所においても、主はそのように、群衆との間に距離を設けた上で、「種まきのたとえ」を語られる。なぜでありましょうか。その「距離」にはどういう意味があるのでありましょうか。端的に言えば、それは私たちが「御言葉を正しく聞き取る」上で、必要な距離なのであります。ただ無闇に主に向かって押し迫り、興奮し期待して主の御体にさわることだけを求め、そのご利益(りやく)を得ることにやっきとなった人間の心に、その競いあらそう群集心理に、御言葉は正しく伝わらない。そこでは心静かに、教えの真意を聞き取ろうとする姿勢を忘れ去ってしまう、私たち人間なのです。なぜなら、そこにおいては、主が何をお考えになっているかよりも、あくまで自分の願いの成就こそが、信仰の中心になってしまっているからであります。私たちはそういう心に駆られる時、一呼吸置かねばなりません。自分のことしか考えられていない心から、御心を求める心へと変えられていかねばなりません。
距離が「恵み」を生む。距離が御言葉を「いのちの御言葉」とする。しかしそれは、我々人間の側が主イエスとの間に作る「距離」が、ではありません。あくまで主イエスが、私という人間との間に作って下さる「距離」が、であります。言うまでもないことでありますが、主が作られる距離。それは冷たさや煩(わずら)わしさのゆえではありません。そうではなくて、あなたとの間に、真に「新しい関係」。これを作っていくために、であります。主イエスとの間に、主イエスの御心によって形作られていく、この「新しい関係」。これこそが、「見よ、すべてが新しくなった」(第二コリント5章17節)と呼ばれるところの「新しさ」そのものなのです。そこにおいて「キリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものである」と言われているのは、自分の思うように動いて下さる主が近くに存在していて下さるからではなくて、あなた自身が、「自分との距離」とも言うべき「主イエスが作って下さる距離」。そこにある恵みの深さに、新生させられるように目覚めさせられていくから、であります。「新しい関係」。そう、今日ふうに言うなら、日々「アップデート」されていく主イエスとの関係。主イエスの側から、その時の「あなた」に向けて日々適用され更新されていく、信仰の関係。これこそが、私たちに、あなたに「御言葉を聞き取らせる」のであります。
主イエスに対しても、何かと私たちは「抱きつく」のが好きなようであります。そして、それを「一体化」と呼びたがる傾向があります。しかし、「主が共に歩んで下さる」とは、そういうことではないのです。たとえ、あなた自身の望みが何一つかなえられなくとも、主はあなたと共にいまし、あなたを導き、あなたを祝福されている。たとえあなた自身が求めた願いは実現しなくとも、その祈りは御心において聞き届けられているのであります。