

2024年7月28日 聖日礼拝メッセージ
説教 共に闘う祈り
「どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい」。御言葉冒頭30節の終わりにおいて、パウロはそう懇願しております。そして、その直前には、「兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする」とあるのであります。しかし、この「お願いする」は単なる懇願ではありません。「勧告」であります。信仰的な「勧め」において、パウロはそう言っているのです。なぜか。続く31節から32節にかけて記されている事柄。これについて、必死の思いがあるからです。そこに必要なのは、単なる祈りではない。ただの祈祷ではない。「共に闘う」としか形容しようのない祈りであります。そうなのです。祈りとは本質において、神に対する信仰上の儀礼的な挨拶などではなく、私たちが必死の思いで「共に闘う」心なのです。祈りにおける闘いというものがあるのです。「ゲッセマネ」における主のごとく。その時私たちが、主のお命じに反して、「眠くて仕方のない」状況に陥っていなければ幸いであります。
祈りは執り成しであります。しかしこれも、主が私たちのために執り成して下さったごとく、何らかの意味で私たちを超えたような人が私たちを神に対して執り成して下さることであるとの固定観念。それに縛られていてはならないのであります。驚くべきことにパウロはここで、本日の御言葉で、自分のために執り成してほしいと必死に懇願しているも同様なのであります。 誰に向かって? あなたに向かってです。この私たちに向かってです。皆さん、祈りとは、信仰強き者が弱い者のために為すことであって、信仰弱き者はその恵みをただ享受しておればよいということではないのです。むしろ祈りとは、それ以上に、弱い者が強い者のために、真に神に用いられようとしている人のために、祈ることでもあるのです。これを忘れると、私たちは肝心の時に「眠く」なります。私たちは、祈りというものにおいて、誰かの祈りによって、主の恵みを受身的に享受する側としての位置に自分を安住させていてはならないのです。逆にそれでは、「祈りによる恵み」というものの本当の意味に「覚醒」していくことも出来ないのです。「祈りの本義」というものに対して「眠ったまま」の状態となるのです。
祈りが一種の「闘い」ならば、礼拝もまた一種の「共なる闘い」であります。覚醒してゆくための闘いであります。ある意味、あの創世記32章のヤコブの「ヤボクの渡し場での闘い」、その「神との格闘」は、そこでも行われるのです。私たちはおのおのが礼拝というものを、そういうものへと共に磨き上げていく自覚を持たねばなりません。そこで夜の闇から射し込んで来る朝の光を浴びねばなりません。そういう時、「わたしのために祈ってほしい」とする、まさに全身全霊の祈りをもって書き綴る本日のパウロによる御言葉。これは、一体いかなる響きをもって、いかなる覚醒を私たちにもたらすことでありましょうか。人の祈りは力であります。その力が欲しいとパウロは願うのです。私たちが「共に闘う祈り」をもって福音のわざに向かってゆくその時、たとえ人は死んでも福音は生きるのです。