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2024年11月10日 創立73周年記念礼拝メッセージ
説教 出会うべき相手

「神の国の奥義」とは、神の側から示され、神の側から起こされて来るものであります。たとえそれが人間の上にあらわされるとしても、本質的な部分で人間の介在を許すものではありません。人間側からの介入。これは排除されるのであります。クリスマスの出来事もそうであって、それは、神の側からの一方的な恵みによって私たちが救われるものであるとの真理。これに通じております。本質的にキリスト教の重要な部分はすべて、私たち人間側からの介入や合理的理解。これを超えた所に存在するものなのです。ただ「救い」。これを得た砕かれた魂。それによって私たちは、そこに在る真理を実感させていただくだけなのです。それが「神の国の奥義」と呼ばれるものの特質なのでありますが、御言葉もまた、私たち自身の人間的努力によって合理的な理解に近づくものであると言うよりは、それを信仰を持って受け入れることによって、ある時、その意味が、いわば「御言葉のいのち」が、突如として上から示されて来るものなのであります。そして、その時に、私たちを徹底的に「打ち砕く」ものなのです。それは、こちら側が主体になって「判断」するような営みではなく、あくまでも神の側から、その意義が一方的に示されて来るものなのです。そういう信仰人生の営みにあって、この「奥義」の前に、私たちは、純粋に砕かれ、かつ求める魂であること。このことしか、許されてはおりません。

そういう所からすれば、ここで「そばにいた者たちと弟子たち」とが、主イエスに「種まきの喩え」の意味を問うたことは、正しい姿勢であります。しかし、いかに主イエスからの説明を聞こうとも、そこで述べられていること自体を個々人が身をもって把握していくためには、なお「神の時」が必要であったと思われます。「打ち砕かれ」ない限り、御言葉は御言葉とならない。なぜなら御言葉は、単に「理解」するものではないからです。御言葉それ自体が、一般的な意味での「理解」を欲しているものでもないからです。ここが学問と異なる点であります。いくら御言葉を学問として分析し解剖してみても、祝福とはならないのです。救いとはならないのです。そこで問われ求められるのは、知識ではなくて、魂であるからです。人間として生きるか死ぬかの所に存在する「魂」それ自体であるからです。明日を生きるために切実に呻き続ける、その人の「魂」に他ならないからです。御言葉の奥義の啓示は、自我をこえ、「信じせしめられる」所に向かって「つぶされていく」以外には示されないものなのです。聖霊によってしか、たどり着けない世界がある。それは「内側」からの神的な出来事であって、外側からの説明や注釈で片付くものではないのです。「御言葉のいのち」はいつもそこに存在し、御言葉それ自体がいつも我々とのそういう出会いを待っております。神が、あなたとの「出会い」を、常に待たれているように…。

「目に見えない事柄」を「目に見える事柄」に置き換えて語るのが「喩え」であります。しかし、それでもなお、「わかりよくなる」ことと「本当にわかる」こととの間には、埋めがたい隔たりがあります。なぜなら、これは信仰の話であって、倫理学ではないからです。

​鷹取教会

​鷹取教会は、プロテスタントの教会です。

住所

〒653-0053

兵庫県神戸市長田区本庄町6丁目6-14

 ☎:078-733-2526

​ (神戸野田高等学校 西どなり)

​アクセス

【交通機関】

 ● JR鷹取駅から南東へ徒歩7分

​   国道2号線より南です。

  

【お車】
 ● 大阪方面から、阪神高速3号線 湊川ICから

​ ● 明石方面から、第二神明 須磨ICから

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