

2024年10月13日 聖日礼拝メッセージ
説教 種との出会い
私たちにとって大事なこと。それは何よりも、御言葉を「生きたものとして」受け取るということです。そこに神の息、神の霊が吹き込まれたものとして受け取るということです。しかしそのためには、人間や物事との或る種の「距離」が必要であります。心を静めて、聖別を受けるためです。自分の置かれた現実に心身とも騒がしくしている状況の只中では、御言葉のそういう「生きた」受け取り方は難しいのであります。その意味で礼拝とは「静まる」場であって、日常の物事や人間関係に敢えて距離を置く場であります。教会はサロンでもサークルでも委員会でもないのですから…。心ゆくまでの「静まり」の時間と空間。そうしたものを求める行動は、主イエス自身も取られました。神の前に、敢えて孤独に、ひとり立つ時間。これを確保するのです。主イエスは、人々に向かい合う一方で、そういうものを大事になさいました。父なる神の御声を聞き取るためです。そして「アーメン」と言われて、聞き取った御言葉を弟子たちに語り始められました。そういう時の「アーメン」は「まことにあなたがたに告げる」という翻訳の方が、「はっきり言っておく」という表現よりもはるかに適切です。一番良いのは「アーメン」のままにしておくことです。この一句に込められた境地を、変に翻訳でいじらないことです。
ところで、「距離を取って静かなる所から語りかける」こと。ここに、御言葉の持つ生命の本来的なありかを示す状態があります。また、受け取る側としても、そういう御言葉の受け取り方がなされて、はじめて、御言葉という無限に生い育ちゆく「種」との、まっとうな「出会い」と呼べるもの。それが果されてゆくのです。まっとうに「聞く」ためには「距離」が要るのです。「静かさ」を湛(たた)えた距離、そこに満つる霊的生命が必要なのです。教会は、そして、教会に集うあなた自身は、誰に対しても、いつもそれを保証しているでしょうか。これはキリスト者である私たちにとって、互いに最も重大な責任です。
「聞く」ということと、本日の御言葉で言われているところの「種まき」の喩えとは、じつに密接な繋がりがあります。そもそも主イエスが「喩え」を用いて語られていること自体、「どのように聞くか」という問題を重視しておられるのです。聞き方によっては、驚くほどの実を結ぶのが御言葉であります。主イエスは、あなたがどんなに信仰者としての自分に絶望しようとも、あなたを、あくまで「良い地」だと信じて種をまき続けていて下さる。その労をいとわず、決してあきらめることをなさらない。それは、あくなき祈りと愛とを持って、あなたのために御言葉を宣べ続けて下さっているということです。私たちは受け取った御言葉の種を元にして、自分の力で神の国を作り上げるのではない。種には種自身の成長力があるのです。その種自身の力が、いわば種の潜在能力が、いかんなく発揮されるような土壌であること。それを保証するものが「静かさ」であり、そこに満つる霊的生命の深さなのです。それは信仰者の名にふさわしい人格を、いつしか作り上げます。そのためにも、御手をもって播(ま)かれた種を、感謝して受けうる魂でありたいと願います。