2024年11月3日 聖日礼拝メッセージ
説教 主への問い
「イエスがひとりになられた時」というのですから、すでに群衆たちは散会していたのでありましょう。その時、そばにいた者たちが弟子たちと共に、主に尋ねるのであります。「種まき」の喩え話の意味を、であります。これは我々としても見倣うべきことであります。何よりも、御言葉を聞いて、分かったような顔をしないこの正直さを、であります。適当に曖昧に解釈して済ませず、恥を忍んで主に尋ねたその勇気を、であります。それは、彼らにとって、御言葉が大切であったことの証しであります。御言葉から人生の真実を聞き取りたいとの思いが人一倍強かったがゆえのこの彼らの問いかけであって、ただ話を聞けたことが有難い、ご利益があればそれでいいという態度とは一線を画するのであります。そういう彼らの態度が主イエスをして「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが」という言葉を語らせているようにも思われるのであります。
そういうことからすれば、「そばにいた者たち」とは、その時たまたまそばに残っていた者と言うよりは、主の御言葉にとりわけ関心を持つ者、御言葉から人生の真実を知っていくことを真剣に求めている者と言うべきであって、これは「神の国の奥義」を知るに重要な態度なのです。私たちは、ご利益からそれを知るのではないのです。だからこそまた、日々の礼拝においても御言葉の説き明かしが必要なのであります。私たちは誰もみな、主の招きを受けて、言い換えれば主ご自身がそれを欲せられて、御言葉を聞くのであります。ですから、御言葉への招きを受けた私たちが真剣に主に問わないことがあってはならないのです。それでは御言葉の恵みは深まらないのです。それは有体(ありてい)に言えば、どのレベルで御言葉を聞くか、御言葉を読むかであります。それは個々の人生態度の如実な反映です。浅薄な所でそれを受け取る人もいれば、「神の国の奥義」にまで深めていく人もいる。それが現実です。どういう聞き方をすれば良いのか。そばにいた者たちと弟子たちとのここでの問いかけが、「種まきの喩え」の意味を尋ねることを通して、そういう根本的態度への問いかけをもどこかに含むものであったとするならば、この「主への問い」は、私たちにとって、いっそう見倣うべき真摯さを示しております。
「主を信じる」生活とは、「主への問い」に生きる生活でもありましょう。「答え」よりも「問い」そのものが大切であるという真理は、いろんな人生場面で見られるものであります。「問いを学ぶ」「問うて学ぶ」ことが学問であるというのも故なきことではありません。大切なのは、「何を問うか」なのです。「どう問うか」なのです。それは御言葉と向き合う信仰生活の営みにおいても例外ではありません。いや、信仰生活ほど、そういう真摯な問いが必要とされる生活はないのです。幸か不幸か、人生の現実には神に対する「問いの種」が尽きることはないのです。「問いの悩み」なくして、どうして御言葉が聞けるでしょう。なぜなら御言葉とは、ご利益を示すものではなく、人生の奥深き真実、その隠された宝、本日の主の言葉で言うのなら「神の国の奥義」。それを啓示するものであるからです。