

2024年10月27日 聖日礼拝メッセージ
説教 福音の慰め
共なる慰め合い、共なる憩い合い。そこに神の下の休息はあります。そこにある静かさは、いかに生命の充溢(じゅういつ)した幸福な孤独を私たちに約束することか。そこでこそ、私たちの魂は満たされます。単独者として共に神の御前に立つことほど、確かな安らぎはないのです。その静寂は神聖であります。時が聖別されております。そのためにパウロは、「共なる祈りの闘いをして欲しい」と願うのです。この時パウロに必要だったのは、一緒に神の懐(ふところ)に休むことの出来る同胞の存在でありました。なぜか。献金を携えてのエルサレム行きという戦いを前にしていたからです。共なる祈りの闘いを通して得られる慰めには、この時パウロにとって、どんな不安や悩みにも勝ちうる憩いがあったのです。とすれば、ここでの憩いは、勇気と結びつきます。そうです。人生行路の船路ゆく私たちにも、そういう勇気が必要な時がある。そういう勇気を得るために、神の前での慰め合い、憩い合いが必要なのであります。
平和の神がおられる所に向かって歩み出していくために、その一歩を踏み出すために、あらためて神の恵みに対する「アーメン」を唱和しなければならぬ時がある。戦いや悩みが深ければ深いほど、神の恵みを確認する「アーメン」が、何としても必要なのであります。パウロの願い通りに事柄が運ばなかったことを私たちは知っております。しかし、この「アーメン」によって、敢えて言えば「アーメンへの闘い」によって、言葉に言い表せないパウロの心の中の祈りは、すでに叶えられていたのであります。そうです。願い通りでなくても、祈りは叶えられたのです。神は、神としての道筋で事柄をなして下さったからです。私たちの祈りも、この姿勢を置き忘れたくはないものであります。とすれば、私たちにとって、何かと願い事多きこの私たちにとって、やはり祈りとは、ある種の「闘い」を含むものなのです。そう、「ゲッセマネの祈り」がまた、そうであったように…。祈りを「請求」ではなく「闘い」とするために、私たちも眠気を覚ましたいものであります。
思索のない信仰は、私たちを深みのない信仰者にさせてしまいます。もし、パウロの願い通りに今後の事柄が進んでいたとしたら、私たちは「思索」のチャンスを奪われてしまっていたでしょう。祈りも感謝も、どこかで人間(自己)の思いを中心とする所でしか受けとめられない信仰が出来上がっていたかも知れない。しかし幸いなるかな、神は、私たちに信仰の名の下に、神の道筋というものについて思索し、そこにおいて感謝する魂を授けて下さった。ちょうど、キリストの十字架において勝利を示して下さったように…。
御霊の愛を受け、聖霊につき動かされる時、私たちは自分を捨て、自分の十字架を負うて歩み出すものであります。じつは「インマヌエル」というのは、そこにしかありません。そこで発見していくものが、共におられ、共に歩まれる神なのです。その時、主ご自身が「共なる祈りの闘い」に加わって下さいます。信仰を生きるとは、そういうことなのです。私たちを、あなたを、恵みの神と共に生かす「福音の慰め」とは、そういうことなのです。