2024年8月11日 聖日礼拝メッセージ
説教 神の問い
3節から始まる「種まきのたとえ」において「種」とはすなわち、「神の言葉」であります。それにしても、御言葉というものについて語り出される時、主はなぜここで、「種」のたとえを持ち出されるのか。考えてみると、種ほど不思議なものはない。有りか無きかの小さな一粒の種が、その種の形状からは想像もつかない巨木を生み出す。「種」自身の中に何百倍もの実を結ばせるエネルギーが秘められている。いかなる大木も、小さな種からの出発です。そして神は、ご自身の言葉をもって、その「種」を、人の心に播(ま)かれるのであります。
神によって播かれた種なのでありますから、本来はすべての人が、豊かな実を実らす大木となるはずであります。その種は、それ自身の中にそのエネルギー、可能性が秘められているのですから。しかし、種は固い殻をかぶっている。播かれたすべてに芽が出るとは限らない。なぜなら、まず第一に、殻を打ち破って芽を出させる「土壌」が必要だからです。すると面白いことが分かるのです。確かに種には、驚くべきエネルギーの成長力がある。しかし、そのままでは、また、それだけでは、その秘めたる可能性、秘めたる力は発揮出来ないのであります。事の順序から言えば、それは先ず、そもそも播かれなければ何事も始まらない。誰かの手の中に握られたままでは、種は「種」としての生命力、成長力を発揮し得ない。種を播かれた人間が、今度は神と共に、その「種まき」の働きに加わっていかなければならないのです。その働きに加わらないままでは、その人自身の種もまた、本来の成長力を見せないのです。神と共に働くとは、種(御言葉)が種(御言葉)となる上で大事なことであります。人間同士のように、一緒に汗を流して働いてみれば、いわば神のお人柄もよく分かって来る。そこから得る経験や知識は絶対的ではありませんが、つまり過去のそれに頼り切ることは出来ませんが、しかし、なかなか馬鹿に出来ないものなのです。
種が実を結ぶために私たちの行動が必要だとしても、しかし、種を播かれた人が種を播きにゆく行動とは、伝道だけを意味しません。大事なことは、「伸びゆく種の力を邪魔しない生活」。これに、あなたがどれだけ勤(いそ)しめているか、であります。いくら行動に励んでいても他人を嫌な気分にさせていれば、そもそも何のための働きなのか分かりません。隣人愛を含めて、その魂のあり方、その心の生活こそが、神から問われているのであります。「神の問い」は、そこにある神の眼差しは、いつも私たちの内面を見つめます。そして、「種」は結局、人と人との間、つまり「人間」の関係の中に、もっと言えばその「人柄」の中に、その真の豊かさをあらわすのであります。育てて下さるのは神です。「良き土」の上に播かれた種は、あなたの前に、それぞれ個性に応じた芽を出し、実を結ばせ、豊かな絆を結ぶにふさわしい、魅力的な花を咲かせるのです。「土くれ」・「土のちり」ほど平凡にして重要なものはありません。それはすべての原点です。しかしだからこそ、いかなる土を持つか、どういう土となるか。その「神の問い」の中に、私たちは生きているのです。