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2024年8月25日 聖日礼拝メッセージ
説教 祈りの人生

パウロはここで「祈ってほしい」と言っています。それを率直に訴えております。懇願しております。私たちは、その姿勢に学びたいと思うのです。その学びなくして、私たちが「兄弟姉妹」だと言っても、どこかに空しさが残る。祈ってほしいとは「思いをひとつにしてほしい」ということです。そのことへのパウロの期待が表明されている。私たちはここに、教会に生きることの意味を考えさせられるのであります。しかもパウロはここで、単に「祈ってほしい」ではなく、「どんなふうに」祈ってほしいか。それを率直かつ具体的に書き記している。さらには、それを書き記すに当たって、パウロは実に興味深い言葉を30節に刻み込んでおります。「共に力を尽くして」というのがそれです。新共同訳において「一緒に熱心に」と訳されているこの言葉は、字義上、「一緒に苦しんで」とも読めるものです。これは非常に興味深く、かつ非常に重要な事実です。

「共に力を尽くす」とは「一緒に苦しむ」ことなのです。だとすれば、この御言葉でのパウロの真意は、「わたしと一緒に苦しみつつ、その悶(もだ)えを多少とも分かち合いながら、どうかわたしのために祈ってほしい」。そう言っていることになります。そしてそれが、「熱心に」ということの内容なのです。言ってみれば、「戦友として祈ってほしい。共に闘い、共に苦しむ戦友として祈ってほしい」。パウロはそう言っているのです。ここから何が言えるか。皆さん、この人生を生きて、共に闘い、共に苦しむ「戦友」と呼べる存在を得ること。いやしくもこれが、キリスト信仰を生きる者にとっての力なのです。幸いなのです。そして、その最も近くに立てられているものが主イエス・キリストの十字架なのです。かかる時、人生において「十字架を背負って歩む」とは、逆にあなたが、独りではないこと、兄弟がいることを意味して来るのです。同時に、「信仰の道を行く」とは、苦しくとも戦うべきことを戦い抜くこと。これを示唆するものであります。そこで交わされる精神が「シャローム」なる平和の祈りです。それは平穏無事を祈ると言うよりは、むしろ試練多き人生にあって、くず折れず健(すこ)やかに戦いうること。これを意味するものであります。

「十字架の福音」。それは私たちが心に焼き付けるべき救いとして、必ずしも平穏無事な福音ではありません。それは、祈るべきこと、主と共に戦うべきこと。それが、私たちの前に、あなたの前に、絶えず示されて来る救いなのであります。御霊の愛は私たちに思い起こさせます。「共に力を尽くして」祈り、かつ戦うべき事柄を、であります。そこにおいて私たちは、神の下の「兄弟」としての絆を確認するのです。創世記のヤコブが、「神が支配したもう」の意味を持つ名(イスラエル)をいただいたのも、彼が戦いで傷ついた片足をひきずりながら朝日を浴びて歩み出す時でありました(創世記32章)。しかもそれが、その戦いが、夜を徹しての「神との格闘」であったこと。その真実を思い返す時、私たちは、神がアブラハム以来約束していた「祝福」とは、実はその格闘の中から生み出される事柄であったことを、いまパウロの人生に思いを馳せながら、深く気づかされてゆくのです。

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