2024年10月20日 聖日礼拝メッセージ
説教 真実の憩い
32節に「神の御旨により」と記されています。この言葉からも分かる通り、祈りとは「神の御心を求めるもの」であります。私たちも日頃、「尊き主イエス・キリストの御名によって」という言葉とともに祈りを閉じております。これまさに、「御心ならば」ということであります。人の願いが満たされるためには、神が同意して下さらなければならないのです。そして本質的に願いに同意して下さったとしても、その果され方、成就のあり方は、我々の思いを超えたものであります。本日の御言葉には「共になぐさめ合うことができるように」と述べられています。これは美しい表現です。そして深い表現です。なぜなら、「共になぐさめ合う」とは「共に主の下で憩い合う」ということであるからです。主の御前にあって、「共になぐさめ合う」仲間は「共に憩い合う」仲間なのです。これが神の下の兄弟姉妹であることの証しであり、その絆のかたちです。「なぐさめ」すなわち「憩い」。これを共に形成することこそ、教会に集う者の喜びです。
「憩い」というと「休憩」を連想しますが、これはあながち的外れではありません。なぜなら、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われているイエス様だからです。私たちの魂は、イエス様からのその招詞にあずかって、この礼拝に集うのです。そこに「呼び集められた者の群れ」たるエクレーシアの祝福があります。この鷹取教会の礼拝の開始を告げる最初の言葉たる招詞。そこにあるように「夜はよもすがら泣き悲しんでも朝とともに喜びが来る」のです。もし私たちに、「主に生かされている者」との思いがあるならば、そこに必ず「復活のいのち」は宿ります。そしてそれこそが「憩い」なのです。「なぐさめ」なのです。主があなたを労(いた)わって下さったように、私たちも互いに「労わり合う」のです。「頑張って」ではなく「頑張ってるね」の労わり合いです。何事もそれ以上、恐れる必要、不安がる必要はないのです。どんな状況に生きても、そこは神の御手の上です。主と共に負い合う軛(くびき)の何と軽いことでありましょう。否、そこにこそ「インマヌエル」の喜びはあると言うものです。あなたの涙も汗も、イエス様がご存じです。イエス様は、あなたの揺るがざる同伴者、応援者です。あなたを慰め、励ます御声が聞こえていますか。福音は届いていますか。主の祈りに導かれ、その祈りに伴われて歩む、自分の人生だと知っていますか。
生ける神の息吹き。私たちにとって、これが我が身に吹き込まれるほどの「憩い」はありません。「なぐさめ」はありません。「いのちの充実」はないのです。なぜなら私たちは、神によって創られた者であるからです。神に触れる「霊的いのち」こそ、私たちの喜びそのものです。生命の躍動そのものです。これなくば、いくら休んでも「憩い」とはならないのです。「なぐさめ」ともならないのです。本日の御言葉においてパウロがなぜ、「共なる祈りの闘いをして欲しい」と呼びかけているのか。共に慰め、共に憩い合えるからです。彼はそれを、福音の交わりの外には見い出しておらず、求めてもいないからであります。